湯来は、慌ただしくドアを開けると手早く治療着に着替え、室内を確認する。 ベッドや床・タオル類がきちんと整理されているか?予約している患者さんがいるのか…など。 カレンダーと見比べて、取りあえず急いでする事はなさそうだ。…院長が休日出勤したな。と、判断する。 きっと月末事務のついで…と、いう所か。 一人ごちると当の本人がやって来た。 「おはようございます」 「あー、おはようございます。早いねぇ」 「って、先生。開院30分、切ってますよー。…でも昨日、支度されてたんですね。ありがとうございます」 「いや、ホラ。自分の城ですし♪」 河野は、待合室奥で着替えながら返事をする。 河野の返事を聞きながら湯来は、手近にある乾いたタオルを畳んでいく。 「そう言えば、院長。瀧本くんが来るとテンション上がりますよね」 「そう?」 「ウキウキしている?って、言うんですか?とても楽しそうですよ」 「…そぅ?かな?」 「?えぇ。午前中と比べて、かなりご機嫌ですよ」 と、言っても身近な人にしかわからない事なのだが。 湯来が、答えると奥からやけにガタンと着替えた服をハンガーに掛ける音が響く。 「…たぶん。…違うよ」 河野が普段、落ち着いている分、明らかに動揺していると湯来は、感じた。 「はぁ?今、何って言いました?」 我ながら、なんてマヌケな声だったんだろう。と湯来は思う。いや、とにかく今は、そんな事はどうでも良い。 私の雇用主は、気付いていない?何を考えている? 「だから…俺…」 河野は、直ぐに口をつぐんでしまう。 はぁぁー。あの、大の大人ですよ?社会人っつーか、曲がり無しにも経営者でしょ?そこの所、ハッキリと決断しましょうよ。 と、いう独白は湯来の胸のウチに閉まっておく。 院長は、真摯だし、真面目だし、思いやりもあって仕事熱心(馬鹿がつくケド)で、本当に良い人だと思う。 外見だって、まぁ悪くない。 こんな人が旦那さんなら奥さん良いわぁ…、肝心な時にお尻叩かなきゃ…だケド。 そう思うと湯来は、知らず知らず低い声を出していた。 「また…ですか?」 「はい?」 湯来の声の低さに慌てて河野は、顔を出す。 「だから、また…なんですか?自分の気持ちに」 「ゆき…せんせい?」 河野は、明らかな湯来の変化に動揺を隠せない。 「しばらく前に「彼女とダメ」とか、言ってましたよね?でも、瀧本くんが来るようになった頃から言ってませんし、先生が別れてた話なんて一昨日、聞いたんですけど」 オマケに自分に教えてくれない水餃子の店に、バッタリ会ったから連れて行ったなんて、どういう事だ。 「………」 「むしろ張り切っている位ですし。…オマケに何に逃げているんですか?」 そして河野を直視する。湯来は、なまじ綺麗な白い顔をしている分、ひたと見つめられると迫力が増す。 その姿は、ご近所の年季の入った御姉様方曰く、『可憐な湯来先生』という姿など欠片もない。 「――ッ。何にって?湯来先生」 河野は、あくまでも平静さを装う。 「じゃぁ。私、告白します。ちゃんとハッキリ」 慌てたのは河野だ。 「まっ、待って下さい!ダメでしょう?…瀧本くんは、年下ですよ!!」 「告白に年齢なんて、関係ありませんッ。それに相手が誰とも言っていませんし。…瀧本くんって?」 湯来は、チラリと静かに視線を戻し、にっこりと笑う。 河野は、絶句してしまう。 朝イチにこんなにもはっきり言われるとは、想像すまい。 「…ワザとですね」 「いいえ。釣り逃がした魚は大きいんです。…言わないなんて、虫が良すぎというか、つまんないですよ」 それに…。あーんなに好意を示しているのに、自分でわからないなんて鈍すぎですよ。先生。 湯来は、心の内でつぶやく。 「…湯来先生。今日は、エラくお説教しますね。まるで母親みたいですよ」 嫌味を込めてしげしげと河野は、湯来の顔を覗き込む。 「そうですか?ちょっと忙しい体なもので。それに母ちゃんになるとココが心配なんですよ」 診察室全体を見渡すように顔を動かす。 「へぇー。母ちゃんですかー…。えっ!?」 「えぇ。今は、『さずかり婚』って言うんですよねぇ」 にっこりと涼しい顔で湯来が答える。 「はぁ!?結婚するんですか?聞いてないし!!」 「あぁ。今、言いましたから♪…まだ1ヶ月にもならないんですけど、ここの産休・育休制度について聞いても良いですか?」 「…えぇ。初のケースだから要検討ですが、出来うる限り対応は、ちゃんと」 河野は、突然の話の展開に面食らいながらも生真面目に答える。 しかし湯来に驚かされる事ばかりだ。いつも想像以上の事ばかり起こる。 そして、それは自分にとっても大きく作用する風のようだ。 瀧本くん…か。 気にならない…のは、嘘だ。 でも、…だろ?相手は、いくらなんでも歳が離れすぎているし、だいたい男の子だ。 けど?…けど、何だ? 河野は、軽く頭を振り、時計を仰ぎ見ると丁度、開院時間直前な事に気付く。 それと同時にリン…と、ドアが開く音がして声が響く。 「あのー。おはようございます。もう、良いですか?」 朝イチの患者さんだ。 「…おはようございます!どうぞ、大丈夫ですよ」 少し挨拶のタイミングがずれただろうか。 僅かにぎこちない自分を感じるが、今日も和接骨院の一日が始まった。 <<前へ |